多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文
化の発信地でもあった。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓
から新しいファッションとして始まったことからも分かる。そして、そ
れらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の
雑多な芸能とともに江戸市中で評判となった。
これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたため
だろう。
それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、芝居
となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われた。
幕府は自ら公認した吉原遊廓を“悪所”として江戸から遠ざけようとし
たが、人々は非日常の世界を、そこに見出していた。