無審査でゴールドカード

2008年01月11日

吉原の近所 (最後)

吉原及び近辺の主な名所

吉原土手
現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀を船で通う遊客も多かっ

た。堀と通りの間が土手になっていたが現在では取り崩されていて現在

も「土手通り」の通称で名前が残る。

衣紋坂
遊客がここで衣紋をつくろうことに由来。土手通りから吉原遊郭の入口

の間にある坂。街道から遊廓を見通せないよう、S字状に道を付けたと

される。

見返り柳
衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱

きつつ振り返ったという。現在は跡地に石碑が建つ。すぐ後ろにある柳

の木は昭和になってから植えられたもの。

大門(おおもん)
吉原歓楽街への正面玄関。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐた

め、出入はこの大門一箇所のみとされた。江戸時代には黒塗り木造のア

ーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、明

治44年(1911年)の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。現在

は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名が残るほか、直近の都

バス上46、草64系統のバス停名として残っている。

江東区の洲崎(現在の江東区東陽)にあった遊郭『洲崎遊郭』の洲崎大

門と吉原大門をつなぐ『大門通り』という街道が現在もバス通りとして

残る。遊郭と遊郭を繋ぐ街道ということで、ここを遊びに行き来した男

たちを皮肉って「親不孝通り」の別称でも呼ばれた。

浄閑寺(じょうかんじ)
吉原の北側、三ノ輪にある寺。安政2年(1855年)の大地震の際、多く

の吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれ

るようになった。その後も、身寄りのない遊女たちを葬り、川柳に「生

まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。慰霊のための新吉原総霊

塔のほか、たびたび当寺を訪れた永井荷風の詩碑が建立されている。

毎年、荷風の命日である4月30日頃に、寺の主催で「荷風忌」が営まれ

ている。

真源寺(しんげんじ)
7月の七夕の前後の朝顔市(ほおずき市)で有名。

以上結構長編でしたが如何でしたか京都の廓(くるわ)も結構面白いの

ん(太夫がまだ現存する)ですよ、それは又の機会に。
posted by ギガボー at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ウーン! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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