江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本は、江戸のみなら
ず大坂や京都、長崎などに大規模な遊廓が有った、地方都市にも小さな
遊廓は数多く存在し。それらの中でも吉原遊廓は最大級の規模を誇って
いて。敷地面積は2万坪以上。最盛期は数千人の遊女がいた。江戸の中
でも最大級の繁華街で、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日
に千両落ちる場所といわれていた。
吉原遊廓の地位
江戸時代を通じて吉原遊廓は男性の最大の社交場所だったが、吉原遊廓
にとっても競争相手は常に存在した。元吉原時代は、湯女と呼ばれる風
呂屋で隠れて商売をする遊女屋があった。江戸は富士山の火山灰が堆積
した土地で埃っぽく、さらに初期の江戸は都市開発の真っ最中だったの
で泥にまみれ、埃まみれになる仕事が多くて風呂屋が繁盛したが、その
中には女性を置いて客の相手をさせる場合があった。丹前風呂などがそ
の例である。
また、その後も江戸が膨張を続けると、深川などに岡場所が出来てきた
り、各街道の最初の宿場町が手軽に行ける遊興場所を兼ねるようになっ
てくると、吉原遊廓は激しい競争に晒されてきた。それでも、江戸時代
を通じて吉原遊廓は江戸では最大の繁華街としての地位を維持し続け
た。明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い
芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされて
いった。