周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6 m)程の堀が巡らされ、
出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されてた。
遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店
にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)か
ら、路地裏にある小店までの序列があったんだ。
大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役
割を果たしたこともあった。
一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けていて、初めて上がった客
と一緒に寝なかった、二度目の登楼で裏を返し、三度目で馴染みになっ
てようやく枕を交わすことができるようになったという。
遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって
武士は野暮だとして笑われることもあったんだ。
武士は恥ずかしいから編み笠をかぶり顔を隠していたんだ、よく知られ
た川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とあって
(傾城とは城を傾けるような美女のことで、ここでは遊女を指す)。
時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中
心になっていった。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門
や、金貸しである札差たちの豪遊が知られて語り草にもなっている。
吉原は江戸時代において文化の発信地としての役割も持っていたが、そ
の実態は女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことを忘れ茶いけ
ない。
1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿
場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。1842年には吉原以外
の場所での売春が禁止された。
明治から昭和・売春防止法施行まで
吉原の遊女(明治時代)明治以降、芸娼妓解放令が出され、1875年には
遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」で自
由な外出もできず、人身売買の実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態
だった。
明治の吉原風俗は『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)や『たけくらべ』
(樋口一葉)といった作品からも窺える。特に樋口一葉は吉原近くの竜
泉に小間物屋を構えるなど当地との縁が深い。1903年には、写真指名シ
ステムがはじまり(「写真見世」)、1916年には、張店が禁止された。
江戸時代には、1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、
1864年、1866年と度々火災に見舞われたが、近代以降も1911年(明治44
年)4月9日には大火が発生した(「吉原大火」)。また、関東大震災、
東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死
鳥の如く復活した。
第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主
化され、特殊飲食店街いわゆる赤線となった。赤線は1958年(昭和33
年)に消滅した。
「オールディーズ3丁目の夕日」とちょうど同じ時代だ言ってみれば裏
側の歴史だね。